2011’ 渓流シーズンを振り返る・2
今回は、今年の「私の釣り」を思い返して想うこと。
一昨年あたりから、自身の釣りの“効率の悪さ”が課題だと考えていた。
大きな川でも、ピンポイントを狙い攻めて、結果を出す。
そんな 「早さ」 と 「的確さ」 が身に付いたら、今後の釣りの展開はかなり変わるだろうと思う。
しかし、「粘り」と「工夫」で仕留められる魚が居るのも確かな事で、ここらの“見切り”が難しい。
実はこの事が今の私の釣りの“課題”の正体の一つで、「粘りと工夫」と書くと響きは良いが、
どうしても“無駄撃ち”が多くなってしまうとも感じている。
それでも、一つ一つ釣り方を試して、答えを探すプロセスも楽しいもので、
今年もあくまで前向きに、少しづつでもその課題に向き合って来た。
今年、好感触で出会った魚達と、その時の釣りを思い出すと。
(“好感触”の意味は後述)
狙い場所でほんの数回の竿振りで出てくれた魚も居れば、
しばし粘って、何とか反応してくれた魚も居た。
どちらかと言えば今年は、前者のほうが多かったと思う。
(そもそも“好釣”が出来たのは、大した回数ではないのだけど・汗)
渓流釣りに本気で嵌り始めた頃。
谷のイワナ釣りをメインにしていた私は、「腕より足」の長距離の釣行が常だった。
それは当時の自分が、次々と場所を変え、沢山のポイントを拾い歩く方が、
より多くの渓魚と出会えると思っていたから。
程なくして、今の自分では獲れない魚が、歩いてきた区間の何処に、どれだけ居るのか?
と考えるようになり、歩くよりも釣り方の工夫をする事に意識が向いてきて。
徐々に歩く距離が短くなり、そしてフィールドが谷から大渓流、本流へと移り、
時にワンポイントでジックリと長時間竿を振る、と言うスタイルになった。
しかし事情が諸々ありで、昨年から今年、そして今後しばらくは、
釣りの時間的余裕が少なくなってしまった。
釣り馬鹿の私には少々ツライことではあるが、
時間が短くとも、回数が少なくとも、その中に集中したいと想う。
毎回狙い通りに、短時間でもガン!と良い釣りが出来れば、何も言うことは無いのだけど、
先に述べたように、そんなのは今の私では中々無理なので。
今年は腰を据えて粘るばかりでなく、色々と工夫してみた。
同じ区間に通い、時期・条件の違う日に、魚の反応を観察し、
また、あまり知らない場所に少しづつでも竿を出し、魚の移動を追跡したり。
普段の大川からは離れて、釣りの細かい部分が見えやすい、支流の釣りをしてみたり。
そして前記事で書いたように、今年は見知らぬ地で竿を振る機会が多かったのと、
沢山の方々との同行が叶ったおかげで、色々な考察が加わった。
それらは直ぐに形に見えなくとも、今後攻め方のバリエーションを増やす事に繋がると想う。
だがこれは、更に無駄撃ちを増やすことにも成りかねないので、
そこらを整理して、「的確さ」を手にしたいもの。
自分自身が今まで造ってきた釣りの考察から、
技術として取り組んだのは、仕掛けのテンション・コントロールだった。
ここに目を向けたのは、私的には正解だったと思っている。
”テンション・コントロール”
その言葉からは、「誘い」等の所作が想像されるかもしれないが、
私の考えるそれは、それらの動作も勿論含めて、他にも色々な意味合いがある。
これらは枝葉が多過ぎて、一括りの文章表現は難しい。
具体的な事としては、オモリと目印の使い方を変えてみた(やり方を増やした)。
「魚が安心して喰う」と「魚に喰ってみようと想わせる」 2つの釣り、
私が最近多く取り組んでいるのは後者。
魚の好奇心を刺激するイメージで、仕掛けを流れに馴染ませつつ、
ハリに付いたエサを魚の口元に運ぶ。
ここに、他の釣り種の皆さんから得たヒントを加えて、今年の釣りをしてきた。
川の様々な条件的要素を読み、魚の行動を予測し、
そこに見合う釣り方を選び、その考察がピッタリと当たって、良い渓魚に出会える。
それが私の場合の「好感触!」と感じられる釣り。
理想的なのは、どの時期、どんな場所に出向いても、それを手にすること。
時として「好感触」とは、数や型、または魚質では語れないとも想う。
同時にやはり私は、大きくて格好良い魚に出会いたい。
結果としての今シーズン。
課題のクリアが出来たとは想えないながら、
様々な考察を取り込み、そして出会えた“好感触”が何度かあった。
まだまだその内容には反省すべき点も多く、
こんな繰り返しが、この釣りを追求する面白さの一面だとも感じている。
今の私程度では、求める姿には遠いのだけど。
少ない機会ながら、僅かでも自身の進歩が感じられたシーズンと成ったこと。
やはり「感謝」の想いで締め括ることが出来て良かったと想う。
もう一つ、ちょっと別項を。
今年の釣りに衝撃を与えてくれたのは、「外国人選手?」の魚達。
大型になると、そのパワーは凄まじいモノがある。
これらを仕留められれば、アマゴ・イワナの良型は、掛けてしまえばどうとも無いような。
そんな感覚と、実に残念な想いを何度も覚えた。
コヤツらを釣り上げる際、考察と技を投入したのは、
先に書いたような、読みや工夫が一部にあったのが間違い無いこと。
出会いに有難う。 でも、ごめんね。
君等の本来生きるべき場所は、ここじゃ無いのだよ。
釣りの云々でなく、胸中に去来する、様々な想い。
私はやはり、日本で生まれ育った、「在来渓魚」が好きだ。
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