渓流に限らず、良く聞くフレーズの一つが「昔は良かった」というもの。
年配の方々は、ダムも護岸もない、自然河川の時代をご存知なのだろう。
そうした自然溢れる景色で育った方が見たら、時として今の日本の山渓はいささか寂しいものに映る事は分かる。
渓流釣りにおいても、大物がどんだけ釣れたとか、数も沢山獲れたとか、そうした話は私も先輩たちから何度も聞いた。
現在はどうだろう?
そして良かった昔とは、どのくらい前の事なのか?
私は河川を含めた自然環境を考えると、生きてきた年月の中で、良くなった部分もあれば、悪くなった部分もある、と感じている。
ただしこれは、「釣りをする人間」の目線の話。
自分の立ち位置からの物見は、時として曲者で。
立場が変われば同じ事柄の見え方は違ったりする。
私は昭和40年代の生まれで、幼少時は「公害」が騒がれていた。
光化学スモッグや海のヘドロなど、山も海も空気も河川も、日本の環境がヤバかったのじゃなかったのか。
それ以前に遡れば、DDTを小学生の頭から振りかけてたり、空中散布したり。
これらはほんの一部の話で、こうした部分だけ見れば、「昔」はどうだ?
先に書いた「良くなった部分」とは、幾つか思い付く中で、あくまで釣り人目線で。
まずは公害問題が鎮静化したこと。
良くなったと書くには問題ありかもしれないが、深刻な水質汚染が起きた河川では、当時は釣りどころでは無かったはず。
沢山のダムが出来て、流路は分断されたが、今ではそこを住処とする魚が居る。
広大な湖の出現で、大型の渓魚が育つ。個体が大きくなれば、一個体から沢山の子孫が生まれる。
その魚は本来のその地の姿とは違うかもだが、大型が育まれ、多くの魚が繁殖する環境は、現代では貴重だとも思える。
悪くなった方では。
場所にもよるのだけど、魚が少なくなった、もしくは居なくなった。
護岸に固められた里川、砂防堰堤などで分断された渓流・・
私自身、好きで通った渓流の幾つかが、河川工事で潰れたのを見てきた。
漁協の努力もあり、魚族が増えている渓もあると聞く。反面、本当に漁協の管理がされてるのか、疑いたくなる河川もある。
悲しいかな釣り人は、「釣る」ことでしかその実感が湧かない。
以前より釣れれば魚が増えたと感じ、釣れなければその逆だと。
更には釣れてくる魚が、養殖魚なのか、自然生えなのか、魚質はサイズはと、色んな観点が絡む。
個人的には、地域ごとの固有の姿型を色濃く残す魚が増えて欲しい。
スイッチ一つで明かりが点り、水道の蛇口からは水が出る。
この国での現代で当たり前な光景は、自然に負荷を掛けて成立している。
住んでいる家は元々山林だったし、道路は山を切り開いて敷かれた。
人の生活の利便性と、自然の荒廃はどうしてもリンクする。環境保全と生活の、バランスが取れる点があるのかもしれないが、無学な私ではそんな難問には答えられない。
自然はその全てが繋がっていて、何の無駄も無い。
ところが人の思惑がそこに入ると、状況が変わってしまう。
沢山の魚に出会いたいと言う釣り人の想いも、そんな一部なのだろうか。
昔は・・
自然環境が良好な時は、人の暮らしは不便さもあったろう。
それは釣り人にとっては垂涎の環境だったのかも知れないが。
現代は・・
利便性が増し、お金も時間も掛けずに、様々なサービスを受けられる。
その負担は魚族だけでなく、自然に生きる様々なものたちが負ってくれてる。
渓魚が釣れれば嬉しい。そして大きくて、自然美を纏う個体との出会いに喜び、現代の渓流釣りをしてる私。
「昔」は道具類は華奢だったはずだが、それ以上に魚が多かったのだろう。
テクノロジーの進化で、私のキャリアでさえ、以前は考えられなかったような、驚きの強度を持つ道具類はザラにある。
当然ながら、こと釣り道具に関しては、釣り人側に有利な環境が整っている。こればかりは「昔」より「今」の方が良い時代のはずだ。
全ての事柄が、全ての人や物に良い時代があれば最高だけども、過去にも未来にも、そんな状況はない。何かが良くなれば、別の何かが悪くなるから。
それでもやはり。
人の手が全く加わっていない「昔」のような自然河川があったら、どんな釣りが出来るのか、想像だけはしたりするのだ。
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